title

濱本日記

このサイトの管理人の一人、濱本君が現在パレスチナで 活動しています。
彼から送られてきたメ−ルを(不定期ですが)アップしていきます。

Palestine Phtos from Hamamoto

4/22

 昨日、ヤシン氏暗殺直後の毎日新聞を読む機会がありました。書いてあることは、まず「原理主義者」の暗殺を強調していること。そして、暗殺により復習がおき、「和平」プロセスが停滞してしまうというものでした。暗殺を行ったイスラエル自体への非難はほとんどなく、ただ、和平の障害になるばかげた行為だということが述べられているばかりでした。

 今回のパレスチナ行きで、ますます分からなくなりました。前回何も知らないままに行ったときとあまり変わらない結果に終わり非常に残念です。

 いくつかのデモに参加した結果、どのデモにおいても具体的な結果につながっていかない。そういった中で毎日毎日デモを繰り返しているパレスチナ人の無力感をひしひしと感じました。最初の頃、てんでばらばらに石を投げるパレスチナ人に正直言ってあきれました。その行為自体はただただイスラエル兵の鎮圧を受けるばかりだったからです。でも、4月15日のビドゥでのデモに出たときに、そうした気持ちは変わりました。かなりの人数のインターナショナルとイスラエル人がいたにもかかわらず、さらに多数のメディア(残念ながら大メディアではありませんが)が居合わせたにもかかわらず、何の成果もなかったからです。石を投げようとする若者を何とかなだめようとする人を見ていて、押さえることの難しさを感じました。現地の人が言うように、こうしたデモを繰り返すことによって、兵士が工事現場にこなければならない。それにはお金がかかるし、少しでも工事を遅らせることが出来るかもしれない。その間に、イスラエル国内の世論が変わるなり、国際的に批判が強まるなり、なんらかの動きが出てくるかもしれない。でも、こうした期待は本当にミニマムのものです。なんらの希望もないまま毎日デモと投石を繰り返しているのとほとんど同じことに見えます。こうした、ほんの一握りの希望と非常に大きな怒りをもっての投石は、ベトニアの場合のようにあまりにも大きな犠牲を伴います。あまりにも理不尽です。

 でも同時に、パレスチナ人の間に漂う疲れのようなものも強く感じました。ラマッラ-でのデモにおいても、周囲には本当にたくさんの無関心な人々がいます。本当に占領が長く続いている証拠だと思います。日本にいると、本当に意識的に積極的にイスラエルの占領に対抗している人の話が伝わったきますが、ほんとに多くの人々がそうしたことを続けているわけではないことがよくわかります。決してそうした人を批判したいわけではありません。

 また、投石関しても、決してすべての人が壁の意味を本当にわかってやっているわけではないということです。よくわかっていない子供を大人が投石に行くように言ったり、子供も遊びの延長のような感じで石を投げたりしています。

4/19

この日はホロコースト記念日でした。エルサレムからエイラットに向かうバスが途中で脇に車を寄せて止まり、乗っていた人全員で黙祷をささげました。パレスチナは2日前に暗殺されたランティシ氏の喪に服していました。

4/16

この日はベトニアに行きました。しかし、この日は組織されたデモはなく、例のごとく投石が続いているのみでした。3台ほどのジープが来ていて、投石をするパレスチナ人に催涙ガスを撃っていました。この日は、風が強く曇って寒い日でした。強い風に乗って催涙ガスが良く流れ、かなり離れていても目が痛くなるほどでした。

しばらくして、何発か銃声がして、投石をしていたパレスチナ人が兵士から遠ざかり始めました。さらに救急車のサイレンが響き始めました。心配になり、行ってみる途中ですれ違った人に聞くと、少年が頭を撃ち抜かれ、病院に運ばれたということでした。ベトニアにはその場で外出禁止令が出され、投石をしていた人たちも家に急いでいました。

撃たれた少年の近くにいたパレスチナ人の話では、約25メートルほどの距離から撃ったということでした。彼は、撃たれた少年の頭の破片を拾い、それを見せながら状況を話しました。

少年は、ラマッラーの病院に運ばれたということで、僕たちもすぐに向かいました。着いたときには、少年の出身地のブドゥルスからも多くの人が来ていました。治療室を変えるためにベッドに横たわったまま運ばれていった少年は、まったく動かず、目は開ききったままでまるで死んでしまったかのように見えました。それから30分ほどして、少年の死が伝えられました。少年はまだ17歳でした。待合室では多くの人が黙り込んでいる中で、母親の泣き声が大きく響いていました。彼女は、子供のもとを離れたくないといって帰るのを拒んでいましたが、家族の人々に引っ張られて帰っていきました。その泣き声は、彼女が病院から出て行くまでずっと聞こえていました。

ここにイスラエルの人はいません。少年を撃ったイスラエル兵ももちろんいません。誰も、少年の死によって生まれる悲しみを知りません。理不尽な死に対する怒りをしりません。この同じ場所にいて感じる責任のある感情を知らないままです。

翌日の17日に、少年の葬式が行われました。病院で遺体を受け取り、ラマッラーの街を行進しました。少年が埋葬されたブドゥルスには、1000人近くの人が集まっていました。

頭を打ち抜くほどの威力を持つということから、おそらく実弾によるものだろうといわれています。しかし、なぜこの日実弾を使ったのかはわかりません。これまで参加したいくつかのデモで使用されていたのは、ゴムでコーティングされた弾でした。ビドゥで行われたデモにおいても使用されたのはゴム弾でした。イスラエルの側は、何かしらの理由を挙げるでしょうが。この日も投石が続いていました。僕たちは200メートルほど離れたところから見ていましたが、特にいつもとの違いを見つけることはできませんでした。この状況からは、実弾の使用、しかも頭部というきわめて危険な部分への使用に対するなんらのルールも存在しないのではないかと思われます。さらに、この日は先週のデモに続き、多くのメディアが来ていました。メディアの目も、発砲の妨げにはならなかった。

4/15

この日は、ビドゥでかなり規模の大きいデモがありました。全体で400人ほど。その中には、イスラエルの人と外国人あわせて30人ほどが参加していました。また、メディアもいくつか来ていて、何かしらの期待を抱かずにはいられませんでした。

イスラエル人と外国人を先頭に、対話を目指したデモだったのですが、兵士から30メートルほどのところまで進んだところで最初の催涙ガスが飛んできました。まだ、抗議の声もほとんどあげていないうちでした。あとは、催涙ガスがひいては集まり、また催涙ガスを撃たれるという繰り返しで、もちろん交渉などできる状態ではありませんでした。この間に、周辺の家の中にいた子供やお年寄りが、催涙ガスにより倒れ、運ばれていきました。こうした、デモに参加していない人々特に女性や子供に対する被害を、1人の外国人がメガホンを使って訴えましたが、返ってきた答えはまたしても催涙ガスでした。さらに、デモに参加していたことで、数人の外国人とパレスチナ人、イスラエル人が逮捕されました。

そのうちに、自制していた人たちの我慢の糸が切れて、投石が始まりいつもの光景が繰り返されました。

投石は、工事の終わるまで続きました。この前日も同じように投石は続いていました。たとえ、投石自体に効果がなかったとしても、人数を集めたデモで工事を止めることができなかったとしても、目の前で土地が削られていくのを黙ってみているわけにはいきません。延々と動き続ける機械を見ながら、その音を聞きながら、石を投げ続けています。それは、見ているだけで本当に疲れるものです。その繰り返しがここでの生活の一部になっています。メディアは、デモのある日に派手な場面だけをとって帰っていきます。たとえその場面が伝えられたとしても、途方もない繰り返しについては伝わっていないのではないのでしょうか。  

4/10

ここ3日間毎日「壁」抗議のデモに参加していました。ISMが今一番重要視しているのが、壁関連のものということで。

7日にはナイリーンという村に行きました。僕たちがついたときにはとりあえず、ブルドーザーを押し返した後で落ち着いた状態でした。ただ、軍事封鎖地域に指定されている道路ののむこう側ではブルドーザーによる工事が続いていました。もちろんその場所もグリーンラインの内側なのですが。時々兵士がこちらにやってきたりして、特に子供たちが騒ぎ出したりしていましたが、大人が投石などをしないようになだめているのが印象に残りました。

8日には、ビドゥ村に行きました。ここでは、前日実弾が使われ、何名かの逮捕者も出たと聞いていたので、少し心配していました。しかし、実際に見たのは、てんでばらばらに投石をしている子供たちとそれに向かって催涙ガスやゴム弾をうつイスラエル兵の姿でした。7台ほどの建設機器を使って着々と工事は進んでいるのですが、そこに近づくこともできません。これは、9日のベトニアでのデモのときも同じでした。この日は、金曜日だったこともあり、かなりの人数の集まったデモが行われていたのですが、兵士のほうに近づいていくに連れて人数は減っていき、最初の催涙ガスで散り散りになってしまいました。デモの方法などいろいろと疑問が残りました。

4/5

パレスチナを、個人であるいて感じることは、確実に進んでいるイスラエル側の政索と、それに対するパレスチナ側の無力感です。正直なところ、壁の建設に対してより大きな力がパレスチナの人々の間で集まってもいいのに、もしくはパレスチナの活動体がその力をより効率的に集める必要のある時期にあるのに、現実にはそうなってはいません。壁は確実につくられている一方で、パレスチナの人々は日々の生活に埋もれているように見えます。何十年もの間続いてきた占領に対する疲れなのでしょうか?去年ここを訪れてから、この一年メディアを通して叫ばれてきた「和平」なんて、ここではどこにもみあたらないし、世界の声などは全く届いていないようにみえます。

あらためてここにきて知らないことがあまりに多いことに気づきました。日本で反対の声をあげるには、「さすがに壁作っちゃだめでしょう」くらいのものでもよかったかもしれないけど、どうやらそう簡単なものではないようです。当たり前のことではありますが。パレスチナの人と話したときに、感じる視野の狭さの様なものは少なくともパレスチナで起こっている事に関わろうとする外国人が同様に持っていてはいけないものだと思います。

4/3

今、エルサレムには日本人も含めて、ヤシン氏暗殺後の報復をとろうというジャーナリストであふれています。でも、小さな(あくまでも自分が当事者ではないからいえることですが)衝突は起きているものの、暗殺に対する報復と考えられるようなものは起きていません。ここで、何か起こることを期待しているジャーナリストが本当に多くて嫌になります。悪く言ってしまえば野次馬にしか見えません。誰かが伝えなければ行けに無いことはわかっているのですが。

29日にナブルスに行きました。2日前にバラータキャンプで衝突があり、6歳の子どもが殺されました。僕の行った日には、ちゃんと店も開き、人も行き交っていましたが、殺された子どものポスターはすでに貼られていて、ナブルスのおかれている状況を伝えていました。

ナブルスからの帰り道のファラチェックポイントで、2人の青年が目隠しをされて、後ろ手に縛られているのを見ました。しばらくして、そのうちの一人が開放されたため、話を聞くと、エルサレムに向かおうとして拘束され、5時間待たされたということです。(本人が言うにはですが。)もう一人の方が、かれの友達らしく、開放してくれるように兵士を説得してくれと頼まれたので話してみました。予想通り兵士は僕の話なんてまったく聞きませんでした。でも、なぜ目隠しまでされているのかという質問に対して返ってきた答えは「私は知らない」の一言だけでした。

翌日、ベツレヘムに向かいました。エルサレムからベツレヘムに向かうためのかなり大きな幹線道路がイスラエル軍によって封鎖されているため、かなりの回り道をしなければなりません。ベツレヘムは本来観光地としてかなりの人を呼べるはずの所ですが、日に5つほどの団体旅行者がくればいい方だという状態だそうです。

ベツレヘムからの帰り道に、エルサレム近郊のアブディスという村に向かっているタクシーが途中で止まり、乗客は車を降りて山道を歩き出しました。どうやら、その先にイスラエル軍がいて通れなくなっているようです。このとき、一人おばあさんがいて急な山道を咳をしながら必死に歩いていました。たまたま、ベツレヘムに来ていただけの日本人旅行者でさえこうした事に巻き込まれる状態では、毎日の暮らしが心配になりました。


分離壁解説画像

解説画像を作成しました。

<※注> 全ての分離壁がこのような構造をしているわけではありません。 カルキリヤ付近では、コンクリート壁の高さは八メートルありますし、 侵入者の足跡を残すための砂の道が作られているところもあります。
 
 


〜更新履歴〜


11/12
PENGONのアパルトヘイト・ウォール報告書、水、環境への影響をアップしました。

11/2
Photoにパレスチナの写真を追加しました。

10/24
PENGONのアパルトヘイト・ウォール報告書、社会的影響をアップしました。
PENGONのアパルトヘイト・ウォール報告書、ガザでの「地獄」の一夜をAbout Palestineに移動しました。

(PENGONのウェブサイトはこちら)