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ガザでの「地獄」の一夜


ビリー・モスコーナ−ラーマン
ラファのISMの活動を体験したイスラエル人女性の手記

被占領ガザ地区、ラファ
2003年5月1日

私は地獄を訪問した。そして、何とか無事に戻ってきた。2003年3 月20日(木)の夜から21日(金)にかけてのことだ。私は、IDF (イスラエル国防軍)に対峙する人間の盾として行動する20歳の人 権活動家、ジョーとローラに同行した。ふたりに「一緒に行く?」 と言われた時、即座に「ええ」と答えたものの、実際にどのような 状況に身を投じることになるのか、私は充分に理解していなかっ た。

砲火のもとに身を置くのは初めての体験だ。死と隣り合わせの状 況。個人としての私は失われ、誰か見知らぬ人の手でいとも簡単に 命が奪われるかもしれない状況。いまだかつて、これほどまでに自 分が弱く無防備だと感じられたことはない。それでも私は「ええ、 行きます」と答え、こうして私たちは出発した。

午後7時30分。私たちはラファ――実際のところ、大きな難民キャ ンプという程度の街だ――のメインストリートを歩いていった。闇 の中に続く建物の残骸、穴と水たまりだらけの道路、ちぎれたナイ ロンやプラスティックのかけら、有刺鉄線、ゴミの山。あちらこち らに開いている店がある。行き会う何組ものグループの若者たちが 大きな声で「サラーム・アライクム、サラーム・アライクム(こん にちは)」と挨拶を寄こす。

突然、ひとりの若者が石を拾い上げ、私たちめがけて投げた。飛ん できた石は私たちのすぐ横に落ちた。ジョーとローラはさして驚い たふうもない。「私たちは、彼らにとって憎むべきアメリカ文化を 表わしているというわけ」とローラは言った。エジプトとの国境に 向かっているらしいということは、ぼんやりとわかった。私たちが 向かっているのは、ラファの家々の最後列にある1軒だけ残った 家、ムハンマド・ジャミール・クシュタの家だ。

無人のいくつもの路地を10分ほど急いで抜けたのち、横に折れて、 長く狭い路地に入った。路地の先に大きな柱が見えた。近づいてい くと、柱と見えたのは巨大な監視塔であることがわかった。塔の近 くまで来た時に、ジョーとローラは両手を高く上げ、私にも同じよ うにするようにと合図した。言われたとおり両手を頭上に上げて、 私はイスラエル軍の監視塔に向かった。足早に、だが、駆け足にな らないようにして、無人の路地を進んでいった。

私たちのジャケットは蛍光性のオレンジ色で、夜はさらに目立つよ うに銀色の太い縞が入っている。ジョーは片手に大きなメガホン を、もう一方の手に燐光を発する大きなシートを持っていた。塔か ら20メートルのところに来ると、完全な闇の中だったにもかかわら ず、眼前に立ちはだかっているのは巨大な要塞であることがわかっ た。ラファとエジプトの国境に位置するイスラエルの防衛拠点だ。

塔まであと数歩というところで、ローラが不意に私を小さな暗い入 り口に押しやって、「急いで、ここよ」とささやいた。私は敷居を 越え、爪先で通路を探った。目が慣れてくるとともに、天井の高い 暗い廊下が姿を現わす。5歩進んだところで、額【ひたい】がコン クリートブロックに激突した。

ブロックの下をくぐり抜け、螺旋階段を10段のぼった。ドアがあっ た。ドアベルを短く鳴らす。ドアが開き、ムハンマド・クシュタの 笑顔が現われた。ドア口に立って笑みを返しながら、私は、恐ろし い歩行の時間は終わったのだ、私たちを歓迎してくれる家と思える ところに着いたのだと、深い安堵感に包まれた。これから、いった いどのような一夜が待ち受けているのか、その時の私はまったく認 識していなかった。わずかな予想すらしていなかった。

私たちが守るためにやってきた家の持ち主、ムハンマド・ジャミー ル・クシュタはドアを開けて、これまで何週間かここで夜を過ごし てきたふたりの人権活動家と、「フランス人のジャーナリスト」と 自己紹介した女性を確認した。フランス人のジャーナリストとは、 もちろん私のことだ。この時点では誰も、私が実際はテル・アヴィ ヴからやってきたイスラエル人だということを知らない。

ジャミールは、「タファッダール、タファッダール(どうぞ、どう ぞ)」と挨拶の言葉をかけながら、私たちを迎え入れた。若い妻の ノーラも、ちっちゃなナンシーを抱いて私たちに加わった。全員が 室内の小さなヒーターの横に腰をおろした時には、もう8時15分に なっていた。そして、突然、それは始まった。強烈な音。私の耳に はごくごく近くに聞こえる音。轟きわたる音、耳をつんざく音、ま るで地獄のような音。今晩、この家が1回めの銃撃にさらされてい るのだ。私にとっても銃撃にさらされるのは、これが初めての体験 だった。私は震えはじめた。全身が震えていた。轟音は、巨大な火 の玉が次々と転がっていくように耳もとを走りすぎていく。ダダダ ダダ、ダダダダダ、ダダダダ。死との遭遇がどのようなものか、私 は理解した。

最初の轟音が響いた時、ジャミールは、お茶のグラスをわずかに動 かした。上に下に、上に下に。ノーラはナンシーを抱く腕に力を込 めた。ジョーとローラは、片隅で眠っている赤ん坊のイバーサーン と、その兄のジャミール坊やのもとに歩み寄り、ふたりを守るよう に身をかがめて様子をうかがった。銃撃は30分続き、1時間半たっ ても私の体はまだ震えていた。それでも、まだ私は、これがほんの 始まりだということがわかっていなかった。言葉もなくジャミール を見つめていると、彼は言った。「これが毎晩続いているんだよ。 2年半の間」

「彼らは何を撃っているんですか?」
「空さ」と言って、ジャミールは肩をすくめた。
「なぜ?」
「こわいからだよ」ジャミールは簡潔に言う。「彼らもこわがって いるんだ。暗闇の中に自分たちだけでいるわけだから。みんな、 とっても若いんだよ」
「どうして子供さんたちを、どこかよそに連れて行かないんですか ? どうしてここから離れないんですか?」何とか声をコントロー ルできるようになってから、私はたずねた。
「金がないのさ」とジャミールは答えた。「別の家に移る金はまっ たくない。この家と壁にありったけつぎこんでしまったからね。し かも借金までした」

危険なゲーム

この何週間か、ジョーとローラがジャミールの家で夜を過ごしてい るのは、単なる偶然のことではない。この家は、エジプトとの国境 に面して建ち並んでいる最前列の家の最後の1軒なのだ。ここから 20メートルも離れていないところにイスラエル軍は高い防壁を作 り、左右の家々をすべて破壊して、銃、戦車、迫撃砲を配置し、街 に照準を合わせている。

だから、ジョーとローラは、ジャミールの家で夜を過ごす。ここ が、次に破壊される家だからだ。軍がいつ、戦車なりD-9ブルドー ザーなりでこの家にやってくるか、ジャミールにも人権活動家たち にも前もって知るすべはまったくない。そして、その時になった ら、イスラエル軍がこの家に接近するのを防ぐのがジョーとローラ の仕事となる。

ローラとジョーは、ISM(国際連帯運動)のメンバーである。ISM は、非暴力直接行動という方法を介してイスラエルの占領に抵抗を 行なっている人権活動家のグループで、メンバーは若く、みな高い 政治意識を持っていて、大学を出ている。きわめて急進的で断固と した決意を持つ平和主義者たち。彼らの目的は、軍が一般市民に被 害を与えないようにすることだ。

毎晩、外出禁止の時間帯が始まると、ISMのメンバーは分担して、 最前列の家々――軍からの銃撃にさらされるパレスチナの人々の家 ――に入る。蛍光ジャケットを着て、メガホンを手にしたメンバー は、銃撃のただなかに、あるいはイスラエル軍のブルドーザーの真 ん前に出ていって、様々な国際条約の文面を英語で伝え、兵士たち が家に押し入ってきたり、銃撃や爆撃をしかけたり、家を破壊した りするのを押しとどめる。

1週間前まで、この方法は機能していた。彼らは、大きな声で呼び かけ、警告を発し、叫び、体を張ってブルドーザーの進路をふさ ぎ、そうして軍は戻っていった。だが、3月16日の日曜日、あらゆ る方途が一瞬にして絶たれた。この日に起こったことは、世界中の メディアで伝えられ、嵐を巻き起こした。人権活動家の若い女性が イスラエル軍のブルドーザーに轢き殺されたのだ。

彼女の名はレイチェル・コリー。23歳。ジョー・スミスが、彼女の 最後の瞬間を数枚の写真に残した。ジョーは、レイチェルがブル ドーザーに立ち向かうのを見た。レイチェルは、いつものようにブ ルドーザーの前に立って、操縦者と話をしようとしていた。次の瞬 間、レイチェルの姿は視界から消えた。ISMのメンバーが「危険な ゲーム」と呼んでいた行動、イスラエル軍のD-9ブルドーザー相手 に行なっていた行動は、ネコとネズミのゲームとなったのだった。

ブルドーザーが破壊を予定している家に近づいていくと、ISMメン バーは蛍光ジャケット姿で、ブルドーザーが行く手に築いていく土 くれの山に坐り、不透明な強化ガラスの奥にいる兵士にメガホンで 呼びかける。ブルドーザーの前に立ちつづけるには、きわめて微妙 なバランスを保っている必要があり、結局、どこかの時点で転倒す るか、土くれの山から落ちることになる。

レイチェルが殺される日まで、兵士たちが実際にそこまで事を進め ることはなかった。そんなことが起こる寸前で必ず停止し、戻って いった。だが、あの日曜、ブルドーザーの操縦者は、決定的な時点 でも停止せず、レイチェルは殺された。ジョー・スミスの写真は、 レイチェルが一刻一刻、死に引きずり込まれていくさまをとらえて いる。

天空を舞っていた力強い大きな鳥に一発の銃弾が命中したように、 全身を丸めてゆっくりと崩れ落ち、やがて土くれの上の小さなかた まりになっていく姿……。決然とした様子でブルドーザーの前に立 つレイチェルの写真がある。次いで、土くれの山に立つレイチェ ル。そして、次の写真に彼女の姿はない。次に、何かを言おうとし ているかのように口を開けて地面に横たわっているレイチェル。そ のかたわらに、覆いかぶさるようにしゃがんだアリス(のちに、ア リスは、レイチェルが最後の力を振りしぼって言った言葉を伝える ことになる。それは――「背骨が折れたわ」)。両脚を胸もとに引 き上げたレイチェル。生命のない袋のように転がったその体。レイ チェルは死んだ。

死後、レイチェルはシャヒード(殉じた者)となった。世界中か ら、この時現場にいた若者たち――8人いたメンバーが今では7人に なっている――にインタビューするために、報道陣がやってきた。 そう、私も、そうしてやってきたひとりだ。編集者から短い電話が あり、エレズ検問所で仲介者に会い、タクシーに乗り、ガザのパレ スチナ人のカメラマンと合流した。仲介者は強い口調で、こう指示 した。
「誰にもイスラエル人だと知られてはならない。今から、あ なたはフランス人のジャーナリストだ――以上」

忌まわしい死

私はISMのグループと24時間、行動をともにした。気の狂いそうな 時間だった。押しつぶされそうな恐怖と不安と強迫感が神経の先端 にまであふれ、心臓は激しく鼓動し、全身が汗に包まれていた。1 日24時間、死と隣り合わせで過ごすというのがどういうことなの か、私は理解した。死。忌まわしい死。銃と戦車とブルドーザーが あなたの家を、あなたの寝室を、台所を、バルコニーを、居間をね らっている。身を守る手だては何もない。どこにも逃げるところは ない。

真夜中、ジャミールの家で、銃撃を続ける戦車を目の前にし、これ で本当に最後だと何度も思いながら、私は自分の手の内をさらすこ とに決めた。仲介者の指示など――ハマスやタンジーム(Tanzim) やその他どんなグループであれ、即座に殺されてしまうかもしれな いから、絶対に正体を明かしてはならないという指示など――どう でもいい。もうあとはないのだという決定的な思いに包まれて、私 は唐突にこう告げた。
「みなさん、本当のことをお伝えしなくては なりません。私はテル・アヴィヴから来たイスラエル人のジャーナ リストです」

一瞬、沈黙が降り、次いでジャミールがにっこり笑って、流暢なヘ ブライ語で話しはじめた。
「ようこそ、ようこそ。アハラン・ワ・ サハラン(ヘブライ口語の一部になっているアラビア語の挨拶)」

「ヘルツィリアのソコロフ・ストリートで4年間、働いていてね」 とジャミールは続けた。「ミフガッシュ・ハ・シャロン・レストラ ンでシャワルマ(肉の塊をローストしたもの)を削【そ】いでいた んだ。ネタニヤのアッバ・エーバン・ストリートとヘルツィリア・ ピトゥアッハのホッド・ホテルでも働いたことがある。いちばん気 に入っていたのは、リトル・テル・アヴィヴ・レストランでさくら んぼのアイスクリームを食べることだったな。あのレストランは、 まだ営業しているかい?」

この一晩だけでも、果てしない砲弾銃弾の雨が私たちの頭上に降り そそいだ。私にとっては、たった一晩のことだ。銃撃は午前1時30 分から4時15分まで続き、そろそろ夜明けの光が射しはじめようと いうころになって、ようやくおさまった。

私はどうしても歯が鳴るのを抑えられなかった。4時間の間、何と か口にすることができたのは、「近い、とっても近い」ということ だけ。ジャミールとノーラは、3人の幼い子供ともども、私を落ち 着かせようとしてくれた。

「兵士は、私たちのことを知っている。私たちが問題のある人間 じゃないことを知っている。音がずいぶん近くに聞こえるのは、う ちの横の壁を撃っているからだよ」
「それじゃ、絶対に家に当たったりはしないんですね?」私は、大 きな希望が湧き上がるのを感じながら言った。
「そりゃ、時々はあるさ。見てごらん。銃弾の跡だ」
私は頭を上げてあたりを見まわした。天井には一面の穴、壁にはい たるところに傷痕がある。台所の蛇口の近くやテーブルの横の壁 も、トイレの壁も、子供たちのベッドから1センチの壁も同じ。詰 め物をして補修された穴もいくつか。毎晩毎晩、銃撃がやむと、 ジャミールは白いセメントで銃弾の開けた穴をふさいでまわるの だ。パッチワークさながらの壁。勇気を奮い起こして窓に近づいて みると、ジャミールとノーラの家は四方を完全な廃墟に囲まれてい るのがわかる。

住民はみな逃げ出した。ただひとり、ジャミールだけが、家族をこ こから連れ出す金を持っていないために、とどまりつづけている。 弾丸がうなりをあげて飛びかう中、ジャミールは家族のためにサラ ダとオムレツを作り、昔ながらのオーヴンでピタパンを焼く。弾丸 がうなりをあげ、私たちは食べる。旺盛な食欲で。

銃撃が近くなったと思った時には、上体を低くする。信じがたいこ とだが、人間はこうしたことにも慣れることができるのだ。1週間 前、ジャミールは大きな黒のマーカーで1枚のボール紙にこう書い た。「兵隊さんたち、お願いですから撃たないでください。うちで は子供たちが寝ています」

ジャミールが大きなヘブライ語でそう書くと、レイチェル・コリー がその紙を持って外の壁をよじのぼり、目立つところに下げた。今 では、レイチェルの顔がパレスチナの「殉じた者」のポスターに なって、居間の窓に下げられている。ジャミールは悲しげにほほえ み、私に向けて――歯をガチガチいわせ、両手をきつく握りしめ、 心臓が激しく鼓動している私に向けて――言った。
「私たちにいっ たい何ができる? 神(アッラーフ)がお決めになった時がくれ ば、私たちは死ぬ。何もかも神の手の内にあるんだよ」 この言葉 は私を元気づけてはくれなかった。

よそ者

24時間の間、私は包囲され破壊された街、ラファで過ごした。住民 も外国人活動家も、ここを「ラファ・キャンプ」と呼んでいる。24 時間の大半の時間、私が会った人たちは、私がイスラエル人である ことを知らないままだった。これは重要なことだ。つまり、私が聞 いた言葉、私が交わした会話は、イスラエル人とパレスチナ人のや りとりと位置づけられるものではないということだからだ。

私を非難しようとした人はひとりもいなかった。私を説得しようと したり、これまで私が理解していなかったことを理解させようとし たりする人もいなかった。彼らに関する限り、私はヨーロッパの ジャーナリストだった。この24時間の間に私がやったことは、私の 年齢の人間にはまったくふさわしくない、恐ろしいまでに無責任な 危険な行為だったと言っていいだろう。

それでも、私は、自分がそんな危険を冒してやったことをうれしく 思っている。私は今、ラファでの24時間を過ごす前の自分とはもう 同じ人間ではないように感じている。人間は、ほんの24時間の間で も目ざましく成長することができるものだ。今では、私にも、多く の男性にとって戦争の吸引力がどういうものであるかが、よくわか るようになっている。人間の体験として、どれほど陶酔感をもたら すものであろうと、戦争ほど、血中に多量のアドレナリンを作り出 せるものはほかにはない。

だが、私が何よりも心がけていたのは、1日にとどまらず、こうい う場でずっと暮らすというのはいったいどういうものであるのか、 それを理解しようということだった。

私の探検の行程は、テル・アヴィヴで朝8時半に始まった。タク シーに乗り込んだ私に、フレンドリーで感じのいい運転手のイェ フーダ・グバリが水とガムを差し出した。荒涼としたエレズ検問所 に着くと、グバリは、こんな気持ちのいい朝にいったい何を探しに いくのかと、興味津々でたずねた。私は真実を告げた。ISMの人た ちに会いにいくのだ、と。

イスラエル人であるグバリはこう言った。
「ああ、あの殺された女 の子のことは新聞で読んだよ。何て名前だっけ? で、本当のこと を言うと、俺はあの子が殺されて嬉しかったよ。アメリカくんだり からやってきて、俺たちのことにあれこれ顔を突っ込んで、何様 だって言うんだい? おせっかいもいいとこだよ。まったく、ブル ドーザーの前に立ちふさがるなんて! 轢かれても不思議はない さ。ほかの連中にも、ちゃんと教えてやらなきゃな。ここはあんた たちの国なのかい、って」

エレズ検問所では、軍の広報官による文書にサインをした。境界を 越える決断をした責任は完全に自分の側にあり、境界の向こう側で 自分の身にどんなことが起ころうと、その責任を軍に負わせること はしない――そう言明する文書だ。そして、灰色に変じた空のも と、私はひとりで境界を越えた。最後の掩蔽壕を越えると、私は背 後の兵士たちに手を振り、束ねられた有刺鉄線の山の横に立って、 パレスチナ人のガイド、タラール・アブー・ラフマを待った。

アブー・ラフマは、現在のインティファーダのシンボルとなってい る写真を撮った人物だ。イスラエル軍と武装したパレスチナ人たち の間で激しい銃撃が繰り広げられる中、銃弾を受けたムハンマド・ アル・ドゥーラ少年が父の腕の中で死んでいく、あの写真。

外国のネットワークのために働いているアブー・ラフマは、ガザ在 住のパレスチナ人としては最近、このうえなく多忙な日々を送って いる。私の公式なガイドである彼が最初に口にした言葉はこうだっ た。「今からヘブライ語はひとことも口にしてはいけません。カメ ラマンにも、あなたがイスラエル人だということは絶対に知られな いように。今からあなたはフランス人のジャーナリストです」

この言葉を頭に納めて車に乗り込むと、私たちはガザ市から車で1 時間半のラファ・キャンプに向かった。車は、ハン・ユニスとラ ファの方向に向けて、ガザの海岸道路を走っていった。「ほら、 ずーっと並んでいるあのホテルやレストラン――以前はどこも活気 にあふれていて笑い声がいっぱいだったのに、今では見向く者もい ない。何もかもが破壊されて見捨てられてしまった」

イスラエルの入植地、グーシュ・カティーフ近くの「アブー・ホー リー」検問所で、車はいったん停車した。私たちは、イスラエル軍 兵士が通過の許可を出してくれるのを待った。アブー・ラフマは激 しい性格で、神経質だ。次から次へと煙草を灰にしていく。このイ スラエル軍の検問所は、3人未満の人間しか乗っていない車は通過 できない。どちらの側の道端にも子供たちが立っている。この子供 たちは、1シェケルと引き換えに人数を確保する必要のある車に乗 り込み、反対側に行くと、また別の車の運転手から1シェケルをも らって戻ってくる。この地の崩壊した経済の内で生き延びる、彼ら なりの方法だ。

私たちは待った。「時には3日、待たなければならないこともあ る。状況次第では」 でも、今回は1時間半待っただけで通過許可が 出た。私たちは、古いユーカリの樹が続く、手入れはされていない けれども美しい道路を走り抜けた。

そして、ようやく私たちはラファ・キャンプに入った。徹底的に打 ち壊された広大な場所。14万人が住むこの場所を「街」と呼ぶのは 難しい。パレスチナの人は百人が百人、「ここはパレスチナでいち ばん貧しくて、いちばん悲惨で、最大の被害を受けたところだ。イ ンティファーダで250人が殺されて、400軒以上の家が壊された。殺 された者の内、半分は子供だ」と言う。

「外国人(インターナショナルズ)」が使っているアパートメント に入ると、とりわけここでは絶対にイスラエル人だということを知 られてはならないのだという気持ちが強くなった。ここの若者たち にとって、イスラエル人であるということは、すなわち、最悪の存 在だということを意味する。家屋破壊、暴虐な殺人、ブルドー ザー、銃撃、戦車、辱めの行為、飢え、貧困をもたらしている元 凶。

室内の若者たちは、フランス人のジャーナリストだという人物相手 に気軽に口を開こうとはしなかった。彼らはメディアにうんざりし ていた。友人の死をまだ完全に受け入れることができず、積極的に 質問に答える気にはならないようで、私のほうの時間が2時間しか ないということもさして気にかける様子はなかった。アブー・ラフ マがいらだたしげに片足を鳴らしているのを、私はナーバスに見つ めていた。

「明日、迎えにきてください」私は唐突にアブー・ラフマに言っ た。短いやりとりを交わし、とにかく自分の身については充分に注 意するからと約束すると、アブー・ラフマは不賛成の色を浮かべな がらもグッバイと言って出ていった。ISMメンバーの内、ただひと り、進んで私と話をしようとしたジョー・スミスが、すぐ近くにあ るインターネットカフェに行こうと言った。カフェに向かう途中、 彼は、どのようにして自分がISMに参加することになったかを話し てくれた。

にじみ出る恐怖

ジョー・スミスは21歳。カンザスシティからやってきた。高校時代 に平和活動家に関する本を読んで、熱烈な共感を抱いた。大学に 入って、政治哲学のクラスでスティーヴ・ネイバー教授と出会い、 マルクスを読んで、自分が白人男性という位置にあること、階級ピ ラミッドの一番上にいる様々な特権を持った存在であることを認識 した。スロヴァキアに行って反グローバリゼーションのグループに 参加し、自分が命をかけてでもやりたいのは、弱い立場にいる 人々、自分が持っている特権を持っていない人たちのために働くこ とだと思った。とりわけ、自分の国の政府、つまりアメリカ合衆国 によって力を得ている強者の独裁制に立ち向かいたい――そう思っ て、ラファの活動家グループのもとにやってきた。

そんな話をしているうちに、私たちは街の中心にあるインターネッ トカフェについた。そこで、ムハンマドという若者に会った。ムハ ンマドは、「このあたりは問題がいっぱいだから」フランス人 ジャーナリストにフルネームは言いたくないと言ったものの、とに かく横に坐って自分がやっているオンラインダイアリーを読んでほ しい、サイト(www.rafah.vze.com)に載せている写真を見てほし いと熱心に言った。

ムハンマドは18歳。繊細な顔立ちの若者で、大学で英語を学んでい る。私はギャンブルに出ることにし、ラファでのガイド兼通訳を やってくれないかと持ちかけた。コンピュータで作業するジョーを あとに残し、私はムハンマドとともに、ラファのメインストリー ト、サラーフ・アッディーン・ストリートに出た。ムハンマドの顔 に、ほんの少し落ち着かない表情が浮かんだので、私は何事かとき いた。

「クーフィーヤを買って髪を隠したほうがいいな。そうすれば目立 たなくなるし、みんな、あなたが自分たちの苦しみに一体感を持っ ていると思うようになるだろうから」
私は即刻、このアドバイス を受け入れることにした。最初の露店の前で足をとめ、クーフィー ヤを買ってから、タクシーを停めた。しばしの交渉ののち、30分50 シェケルで手を打って、街の周回に乗り出した。

ムハンマドは、カフェで会った時に、私に、ISMのもとを訪れた外 国人のジャーナリストか、とたずねていた。ここでは、噂はあっと いう間に広まる。タクシーの運転手は、あの運命の朝、レイチェル ・コリーを死の現場に運んだのは自分だと言った。

ムハンマドが、最初に私に見せようと選んだ場所は、街の北端のブ ロックG、これまでに400軒の家が破壊された区域だった。私たちが 近づいていくと、テントに住んでいる住人が、銃を向けている戦車 には近づかないようにと言った。

「何か動くものを見たら、すぐに撃ってくるから」と、ロバに乗っ た女性がムハンマドに言った。それから先は、家の残骸の間を半ば 這うようにして、頭を上げないよう注意しながら、狭い路地を進ん でいった。200メートルほど離れたところにいる何台かの戦車は、 いつでも砲撃ができる態勢だった。

ムハンマドにとって、私に大規模な家屋破壊が行なわれた場所を見 せるのは重要なことだった。ムハンマドは、これまで、破壊された 家を一軒また一軒と写真に撮って、画像を自分のインターネットサ イト――1日に世界中から900人が訪れる――にアップしている。何 列にもわたって続く家屋の残骸。そこに散らばる個人的な物。人 形、家具、自転車、本。私たちは、威嚇する戦車の銃口を避けなが ら、路地を進みつづける。

「連中はいつでも撃ってこられる。何であれ、怪しげな動きをとら えた瞬間に」とムハンマドは言い、なおも先に先にと私を導いてい く。足先からふくらはぎへと、ジリジリと恐怖が這い上がってく る。

一歩一歩近くなってくる戦車の姿、残骸のさらに奥へ奥へ。私はつ いに声を上げた。「もう充分!」。ムハンマドはフランス人ジャー ナリストの言に従い、私たちは改めてタクシーに乗り込んだ。

次の行き先は、F-16戦闘機に破壊されたアル−ウブール空港、次は レイチェル・コリーが殺された現場の破壊された家々、次は、2台 の救急車が休む暇もなく走りまわっている小さな病院。ほとんど は、100メートルほど離れたところから見た。「いつ何時、銃撃が 始まるかわからないから」だ。

2時間後、私はひと休みを主張した。小さなレストランに入って、 大きなピタパンとホムス、テヒーナ(ゴマのペースト)、コカコー ラを注文した。全部で4.5シェケル(約1ドル。テル・アヴィヴの 半分の値段だ)。

「どこに住んでいるの?」と私はきいた。
「両親と別の家に移ったんです。2カ月前。家が破壊されたから。 大学から戻ってきたら、何もかもがメチャクチャになっていた。コ ンピュータ、本、ノート、勉強用の道具や資料。何ひとつ残ってい なかった。連中は不意にやってきて、即座にすべてを破壊しまし た。物を持ち出す時間なんてこれっぽっちもくれませんでした。僕 たちはそのまま路上に放り出されたってわけです。僕、父、母、3 人の兄弟、祖父の全員が」
ムハンマドはフランス人ジャーナリスト に語った。
「理由なんてまったくありません。僕らはごく普通の一 家です。何にも関係していません。なのに、連中は1時間で僕たち の生活を完全にたたき壊してしまったんです」

淡々と話すムハンマドを、私は見つめていた。400軒の破壊された 家を見た今、私はようやくムハンマドの悲しみを本当に理解した。 ムハンマドに連れられてISMのフラットに戻ると、メンバーは、レ イチェルと同じ日に殺された人たちの家族に連帯感を表わすための 訪問に出かけようとしているところだった。私が一緒に行きたいと 言うと、驚いたことに、誰も異を唱えなかった。

私も含めて7人は、すし詰め状態で1台のタクシーに乗り込み、ま ず、街の端にある給水塔に行った。グループの仕事のひとつは、銃 撃で損傷を受けた水道管や電線を修理する作業員をガードすること だ。

作業員が仕事をしている間、ジョーとローラとアリスとゴードンは 彼らを囲む輪を作って、兵士の銃撃から守っていた。

顔のない敵

遺族の家に行くと、私はほかのメンバーとともに床に坐って、苦い コーヒーを飲み、ナツメヤシを食べながら、話に耳を傾けていた。 「イスラエル人」という言葉はほとんど聞かれなかった。「兵士」 という言葉さえ、まれにしか使われない。パレスチナ人が普通使う 言葉は、ただの「彼ら」だ。これは、たまたまそうなったというの ではない。事実、私がここで過ごした30時間の間、血と肉体を持っ た生身のイスラエル人はただのひとりも目にしなかった。

パレスチナ人の観点から言うと、敵は顔を持っていない。体もな く、人間の形もしていない。敵は、家ほどの大きさがある怪物、上 部に不透明の四角い強化ガラスの窓が並ぶ巨大なD-9ブルドーザー の奥に隠れている。掩蔽壕の奥に、監視塔の奥に、金属の戦車の奥 に、隠れている。

敵は顔を持っていない。感情や意図を読み取れる表情を持っていな い。敵は、何トンものカーキ色のスチールの奥に隠れている。脅迫 的で、警告もなく砲火を吐き出すスチールの巨塊。街路にいる人間 にとって、敵は虚構の存在(ヴァーチュアル)で、精妙な人間なら ざるもの、アクセス不可能なものだ。

そして、この敵を前にして、泥道を歩いているパレスチナの人々 ――その多くは破れた服をまとい、何人かは裸足で、誰にも顧みら れることもなく、ひと目で貧しいことがわかる。悲しみ、不安、苦 しみ、不十分な栄養の跡がはっきりと見て取れる。45歳で誰もが年 老いて見える。

この人々は、何か仕事はないかと、街の端から端へと歩いていく。 あちらへ、またこちらへと歩いていく、男たちの集団。彼らには仕 事もなく、行く場所もない。みな――男性も女性も子供も――狭い 家、ちっぽけな土地に押し込められて暮らしているのだ。連帯のた めの訪問から戻る途中、私たちは、大勢の男たちが行進していると ころに行き合った。

先頭には巨大なラウドスピーカーを備えた車がいて大音量の音楽を 流し、マスクを着けた10人の若者が剣を掲げてイラク戦争反対のス ローガンを叫んでいた。ISMのメンバーは「デモだ、デモだ」と 言ってタクシーを停めさせ、即座に、この猛々しい男たちの列に加 わった。フランス人ジャーナリストも否応なく行進に加わり、グ ループの3人の女性――ローラ、アリス、キャロル――と絶えずア イコンタクトをとりながら歩いていった。

パレスチナ人の女性の姿はまったくない。TVで見ていていつも恐ろ しい印象を受けるデモ行進。黒い布で目を覆った男たち、大音量の ラウドスピーカー、歯にくわえた剣とナイフ。だが、至近距離での 直接的な人間としての接触は、ドラマの面を大きく削ぎ落とす。私 は、猛々しい男たちを眺めながら、もし、私のポケットにイスラエ ルの身分証明書(IDカード)があるのを知ったら、この人たちは いったいどういう反応を示すだろうとあれこれ想像してみる。汗を 流している顔を見ていると、彼らがいかに若く、いかに必死で行動 を求めているかがよくわかる。

アリスとローラとキャロルは、アメリカ人とイスラエル人に抗議す る加熱したスローガンの大合唱に加わり、「殉じた者」の役割を果 たすことになったレイチェルの顔を印刷した大きなカラーポスター を取り出した。26歳のロンドンっ子、アリスが、メガホンを口に当 てて、レイチェルがパレスチナ人のために何をしてくれたか、そし てどんなふうに殺されたかを、熱と怒りを込めて語った。アリスは 英語で語り、パレスチナの男たちは崇敬の面持ちで聞き入ってい た。

アリスは、このグループで最強の女性のようだ。若く、カリスマ性 にあふれ、常に断固たる姿勢をくずさない。アリスが、このタフな 外観を脱ぎ捨て、ジャンヌ・ダルクのイメージをほんのちょっぴり やわらげて、簡単なインタビューに応じるのに同意してくれるま で、私は10時間もの間、チャンスをうかがっていなくてはならな かった。アリスは(名字は名乗りたくないという)ロンドンで育っ た。高校を出ると、コンピュータのプログラミングを学び、いい仕 事について、いいアパートを借りた。

「ブルジョアの生活を送っているうちに、これではどこにも行きつ かないことに気づいたの。新しいボーイフレンドと高級レストラン に行く途中、歩道で眠っているホームレスの人を見てね。強い者が 弱い者をどんなふうに搾取しているかに関心を持ちはじめて、しば らくの間、工場で働いてみた。それからは、どんどんポリティカル になっていって、自分がやることのひとつひとつに対して自分自身 に説明をするようになりはじめた。私は何を食べているか、どんな ことを楽しんでいるか、資本主義者社会で生きていくということは どういう意味を持っているのか、といったことね。プラハでのデモ に参加した時に逮捕されたわ。自分の勇気をテストして、そんなふ うにいろいろとやってきて、ようやくここに来るだけの自己トレー ニングを積むことができたの。ここは本当に厳しいところよ。私に とっていちばん面白いのは、強者が弱者に対して使う力の戦略の分 析。私の人生に意味があると感じられるのはここだけ――イスラエ ル人に立ち向かうパレスチナの人たちの手助けをしている時だけ ね」

私たちは嵐のようなデモとともに20分歩いたのち、行進からはずれ て夕食の買い物を始めた。冷凍肉、ヌードル、米、砂糖、クッ キー、お茶。このグループの活動資金は寄付でまかなわれていて、 全員が共同生活を送っている。使った金は1シェケルに至るまでき ちんと書きとめられた。

逃げる場所はない

午後6時、夜に備えての今日最後のミーティング。小さな共同体の 活動は、厳密なルールのもとにある。メンバーは、脅威にさらされ ているパレスチナ人の家で夜を過ごしたのち、毎朝8時半にアパー トで合流する。それぞれの前夜の体験を検討し、パレスチナ人の友 人たちから現場の成り行きを聞き、その日の作業分担を決める。

メンバーは電気関連の施設や井戸で「人間の盾」として働き、証言 を集め、小型のビデオカメラで状況を撮影する。敵意に満ちたス チール塊の前にメガホンを持って立ち、搭乗している兵士たちと対 話を試みる。このカオスの中、現在の7人のメンバーは、とてつも ない荷を引き受けている。だが、いったい誰が、この若者たち自身 ――毎晩2時間しか眠らず、個人的にまのあたりにしたレイチェル の死を受け入れられるようになるだけの時間さえ、まだ持てないで いる、この若者たち――のことを気遣い、世話をしてあげているの だろうか?

彼らが骨惜しみすることなどはまったくない。自分たちがレイチェ ルの顔の血を拭くと言い張り、レイチェルの折れた背骨をさすり、 自分たち自身の手で遺体を保管所(モルグ)に運び、遺骸を布でく るみ、テル・アヴィヴに搬送する救急車に同乗し、太陽が照りつけ る中、検問所で何時間も待たされて、遺骸から死臭が立ちのぼりは じめたのも意に介さず、兵士たちと語気鋭くやりあった。

母親の役割を果たしているのはキャロル・モスコヴィッツだ。キャ ロルは夫のゴードンとともに、1週間前にグループに加わったとこ ろだった。キャロルは61歳で、ゴードンはもう少し若く見える。ふ たりはアーティストで、カナダに住んでおり、3カ月間、世界中を 旅してまわっていた。レイチェルの身に起こったことを知って旅行 を切り上げ、手を貸そうとやってきた。

日曜以来、ふたりは、若いメンバーたちに対して両親のように振る 舞っている。お茶の支度をし、いろいろなことを問いかけ、レイ チェルの死が残したショックと信じられないという思いに立ち向か わせようとしている。カナダに3人の娘がいて、1時間前、キャロル のもとに、いちばん上の30歳の娘から、母の日おめでとうという電 話がかかってきた。キャロルとゴードンは、自分たちがラファ・ キャンプにいることを、娘たちには隠している。自分の子供や孫た ちには心配をさせたくないと考えている。

ローラとジョーとともに、ムハンマド・ジャミール・クシュタの家 ――不運にも、エジプト国境のすぐそば、イスラエル軍の駐屯地に 面して建っている家――で夜を過ごすために出かけていったのは7 時半だった。

ジャミールの家で、4時間にわたって休むことなく続く、銃やミサ イルやロケット弾や、その他もろもろの襲撃を受け、心底から、こ れで終わりだと何度も感じながら、私はギャンブルに出て、自分が テル・アヴィヴから来たイスラエル人であることを明らかにした。

続けて、私はこんなふうに言った――今、銃撃しているあの兵士た ちの中に、私の息子がいるかもしれない。あるいは、私の家に来た ことのある息子の友達がいるかもしれない。自分たちが銃撃してい るこの家に、私がいることなど知らないままに……。次の瞬間、私 たちは顔を見合わせて笑い出した。銃弾がうなりをあげて飛びかう 中、3人の幼い子供と2人のアメリカ人、パレスチナ人の夫婦、ひと りのイスラエル人が、サラダの大きなボールを前にして、声をあげ て笑いはじめたのだ。

全員が、その時突然、人間どうしはみな似ているということに気づ き、ほっとするものを感じると同時に、深い憂慮と絶望的な思いに 包まれたのだった。ささやかな運があって、この夜を切り抜けられ たら、私は、もとの生活に戻ることができる。だが、ジャミールと ノーラに逃げる場所はない。日々、本物の砲火が炸裂する中で、3 人の子供を育てていかねばならない運命のもとにある。

続いてローラが口を開き、ローラもまたユダヤ人であること、それ もかなり信心深いユダヤ女であることを、明らかにした。さらに、 イスラエルを憎む勇猛果敢なISMの「ジャンヌ・ダルク」、アリス もまたユダヤ人であることが判明した。

そして、ジャミールが言った。「あの兵士たちも、まだ20歳そこそ この子供たちなのに、冷たいスチールに囲まれた暗がりの中で、自 分たちだけで震えながら耐えていなければならないんだ」

私たち全員が同意した――人生は短く、人間は愚かな生き物だ。

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"I was a human shield": An Israeli visits ISM in Rafah Billie Moskona-Lerman, writing from Rafah, occupied Gaza 1 May 2003

初出:マアリヴ紙、ウイークエンド・サプルメント、2003年3月28 日。ヘブライ語。
英訳:グーシュ・シャローム・チーム。
英語版掲載:エレクトロニック・インティファーダ、The Diaries、2003年5月1日。
日本語訳:山田和子。エレクトロニック・インティファーダ編集部 の許可を得て英語から翻訳。
原文:http://electronicintifada.net/v2/article1415.shtml

http://electronicintifada.net/new.shtml

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