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Report # 1 November 2002 政治的背景 パレスチナ:統治下、1948〜1993 1920年に始まったイギリスによる統治の間、パレスチナの国境は27,000kuの領域を含むものと規定されていた。 1947年、国連によりパレスチナをユダヤ人,アラブ人それぞれの国家に分割する計画が提案された(Map4)。 しかしながら、分割案はパレスチナ人にとって不公平なものであり、パレスチナ人の自決権を否定し、 人口において少数の植民地住人による管理下に置かれてしまうことになるため、当然のことながら拒絶された。 1948年、植民地住民のユダヤ人シオニストは、委任統治下のパレスチナの78%を含むこととなるイスラエル国家の 独立を一方的に宣言した。一方で、エジプトとヨルダンは残りの土地を治めることになった。西岸とガザ地区である(Map6)。 イスラエル国家建設の期間に、400ほどのパレスチナ人の村が完全に破壊された。さらに、その他の村や主要都市でも ユダヤ人住民に取って代わられた。この結果、2002年時点で5000,000人を数える難民が生み出され、西岸、ガザ、 イスラエル国内、アラブ世界、世界各地に散っていくことになったのである(Map5)。 1967年に新たな戦争が始まり、歴史的なパレスチナの残りの22%がイスラエルにより占領された。 この地域は西岸とガザからなり、6000kuの広さだった。1967年までに歴史的なパレスチナのすべての土地が、 100年も前から続いてきたユダヤ人の植民地建設計画のものとなってしまったのである。 1967年の占領に続き、イスラエルは即座に、西岸とガザ地区において使用されていない土地の植民地化と
パレスチナ人の住む土地の隔離をすすめる強力なキャンペーンを開始した。これは、出来るだけ多くのパレスチナの土地を
イスラエルのものとするための長期的な計画の一部であった。1967年から86年の期間に、一連の計画が実施された。
「アロンとグッシュエムニム計画」のような計画である。(それぞれ当時の労働大臣と1974年に創設された
超国家主義・ファシズム的入植運動の名前にちなんだものである。) これらの計画は、入植地を建設し、
ヨルダンやエジプトから西岸やガザ地区を隔離することを目的とし、その実行によって西岸の50%以上の土地が奪われ、
イスラエルのものとなった。これと時を同じくして、農業大臣のアリエル・シャロン(現首相)が先頭にたって、
パレスチナ人によるあらゆる形の抵抗をおさえつけようとする「テロとの闘い」という入植地建設の原理がとられていた。
驚くほどのことではなく、シャロンによる「テロと闘う」ための戦略は、西岸・イスラエル間の境界を消去し、
歴史的パレスチナの併合への道を整えるために、グリーンラインに沿って入植地建設を強力に推し進めることと
密接な関連をもっている。それゆえ、入植地への道路や西岸全域に拡がるバイパス網の存在をもシャロンの計画は示していた。
併合されることなくまた、人口統計上の「関心」の対象にもならないパレスチナの残された土地はイスラエル政府のもとにおかれ
た。それゆえに、西岸の現状の地図(Map7)に対しては特に驚くべき所はない。
オスロ和平プロセス 1993年、「平和と交換に領土を(Land for Peace)」という原則と国連決議242と338に基づいて
和平交渉を進める道筋を示すものとして、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)は共同宣言に調印した。
1990年代には、一連の和平交渉と継続的な相互の合意が成されたが、イスラエルによるパレスチナ占領の停止への
合意には至らなかった。反対にこの期間は、西岸地域を6つの地区(A,B,C,H1,H2,保護区)
(Map7)に分類してしまった期間として
特徴づけられている。この分類によって、入植地とそれをつなぐバイパスに取り囲まれた、数え切れないほどの飛び地が生み出
された。事実、和平交渉の停止までの期間で、一番新しいイスラエルからパレスチナ人への提案では、A地区の18.2%と
B地区の21.8%を求めるものだった。
共同宣言の調印から、和平交渉のレトリックと実際に起こっていることとのギャップは非常に大きなものになった。
事実、1993年以降入植者と入植地(新しいもの、拡大されたものどちらも含む)の数は二倍以上になり、労働党内閣において
その拡大は最も大きいものとなった。1967年に始まった入植政策は、和平交渉の期間中に最も大きな進展を見たのである。
2000年、第二次インティファーダ エフード・バラク首相の労働党政権下の2000年9月28日、彼の承認のもとに、アリエル・シャロンはエルサレムの アル・アクサモスクを訪れた。これは計画的で、千人の兵士を引き連れた非常に挑発的なものだった。翌日の金曜日、 安息日の礼拝でこみ合っている中、武装した兵士千人ほどがモスクに再び入り、西岸やイスラエル国内から来ていた パレスチナ人を数人撃ち殺し、数十人に怪我をさせた。インティファーダ、つまりは抵抗運動が始まったのはこの時であった。 「シャロンが木曜日にモスクを訪れたことと金曜に起きた殺人はそれ自体が挑発的なものである。しかしながら、 これらもイスラエルによる抑圧の一つの事例であり、イスラエルが長期にわたり継続してきた人権侵害のために パレスチナ人の間で共有されてきた痛みを反映して、インティファーダの爆発が起きたのだ。」これが、 パレスチナ人の間で広く共有された考え方だった。 アル・アクサでの虐殺以降、イスラエル軍は西岸、ガザさらにはイスラエル国内のパレスチナ人市民による 非武装の抵抗運動に直面した。非常に多くの人々がいわゆる「衝突」において毎日のように殺された。「衝突」は、 ほんの一日前に軍によって殺された人の葬式の最中や直後にも起こった。痛みをうけ、怒りに満ち、石を握りしめた、 武器を持たない若者達が、数え切れないほどのチェックポイントでイスラエルの狙撃兵とぶつかった。 彼らはチェックポイントでパレスチナ人を殺しあるいは重傷を与えるために、遠距離から抵抗者の上半身を狙って銃を撃った。 撃ち殺そうとしていることは明らかであり、常に一貫していた。「健康・開発・情報・政策協会」によると、 インティファーダ開始後最初の一年間の死者の内訳は次のようになっている。弾薬によって殺された人の 99.4%が上半身を撃たれており、30%が子供である。一方、60%は衝突に巻き込まれたために撃たれたのではなく、 むしろ自分達の日常生活を送る中で撃たれた。家や道や学校や車の中で彼らは撃たれたのだ。インティファーダ最初の 6ヶ月間は、その開始の日と同じことが繰り返された。つまり、武器を持たないパレスチナ市民が軍によって殺されたのである。 ここ二年の間に、イスラエル軍はパレスチナの領土内にくり返し侵攻した。チェックポイントによって町や村を封鎖し、
24時間の外出禁止令を敷いた。その中で、土地の没収や併合に基づいた古くからの一方的な分離政策や、
パレスチナ人の土地を互いにつながりのない飛び地にしてしまう隔離政策の実行を加速させた。この長期にわたる
政策の一部を成すのが、2002年6月にイスラエルが1948年のグリーンラインに平行してその東側に建設を始めた
『アパルトヘイトウォール』である。
流れの中の『アパルトヘイトウォール』 『壁』建設の位置は、グリーンラインの東側のパレスチナ領土にこれまで建設されてきた入植地すべてを イスラエルに組み入れることを企図して計画されている。グリーンラインは少なくとも全長350kmだ。 『壁』の建設を通して、数百万uのパレスチナ人の土地が奪われ、ブルドーザ−によってならされることになる。 何千本もの果樹が引き抜かれ、パレスチナ人の村や町が農地から切り離され、パレスチナ人が暮らしてきた地域は 『壁』の両側に小さく分けられてしまう。それゆえに、『壁』というアイデアは無から生まれたものではない。 これは長期にわたる計画と一方的な隔離政策の結果生まれてきたものなのである。 国連決議242と338を考慮すると、これらは西岸とガザ地区を占領されたパレスチナ領土と規定している。 そのため、イスラエルによる『壁』建設開始は、安全保障の名のもとに土地を奪い取るという、体系化された 国際法に違反する行為である。『壁』の建設は環境破壊や人権侵害を伴っている。イスラエルは日々、 新たな入植地、基地、バイパス、チェックポイント、軍の閉鎖地域を作りつづけている。西岸地区では、 二百万人以上のパレスチナ人が、四十万人の入植者(内二万人は東エルサレム在住)と世界で最も強い軍隊の なすがままとなっている。 『壁』が1967年の停戦ラインを示すものではなく、そのルートはイスラエル人の右側から左側まで含めた 入植者の要望に応えるものであることの確認の中で、イスラエルの政治家達は、『壁』は1967年の停戦ライン とはまったく関係なく、治安維持への関心とイスラエルの利益となる政治戦略的な動きであるとくり返し公に認めてきた。 イスラエルにおける『壁』建設支持は、労働党も含めて完全に一致したものである。労働党員のヘイム・ラモンと ベンヤミン・ベン・エリゼルは『壁』建設に対する最も率直な擁護者である。彼らは、『壁』が単なる安全保障の ための手段ではなく、「和平プラン」の一部として、影響力をもつような戦略的なものと考えている。 ベン・エリゼルはシャロン首相のもとでインティファーダの期間の大部分国防大臣で あったが、彼は、『壁』建設を進める命令をくり返し出し、さらに進んで、『壁』が建設されるという想定に基づいて、 停戦ラインにそって5つの越境地点を作るようにイスラエル空港局に指示した。事実、 空港局は、インティファーダ以前から一方的な越境地点設置計画が始まっていたことを認めた。(ハアレツ紙2002,10,29付) このことは、『壁』の建設がインティファーダ以前に始まっていたより大きく戦略的な流れの一部であるという主張を強める ことになるだろう。 Section contributors: ARIJ, LRC
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